私たちにできる、ほんの些細なたったひとつのこと
みなさん、今日も裸になっていますか?卓上のハッケヨイです。
日々石ころ遊びに勤しむ中で、麻雀には決して抗うことのできない二つの運命があることを私たちは学びます。それは配牌とツモ。デジタルだオカルトだ何切るがどうだ正着はこれだ、といくらなまじかな知恵をつけようとも、卓を前にした私たちは所詮AMOSの掌の上で踊り狂うボノボのいとこに過ぎません。
さて、ここで上図の配牌です。この神が与えた苦難の絵葉書に、無力な私たちはどう立ち向かえばいいでしょうか?天を仰ぎ、肩を落としうなだれるばかりでしょう。そして適当に不要牌を切り、そして祈るのです。次こそは好ツモが回ってくることを。これが、人の子に残された最後の領分ということでしょうか?
勇猛で懸命なアタマヘッズである私たちに、もう祈りは似合いませんね。アタマを志す人間は誰しもがprayerではなくplayerなのです。もう配牌を見て悲嘆にくれることはありません。新世代では、あらゆる十三枚の牌は光り輝く役満の六向聴なのです。ただ、その光は生れ落ちたままではまだ仄暗くか細い。32000を掴み取るには、私たちの手牌はまだまだ長すぎるから。だから私たちは、一牌一牌を懸命に、文字通り命を懸けて選び取りましょう。それが、運命に立ち向かう無力な人の子に与えられたたったひとつの方法なのです。きっとそれは、今までの麻雀もこれからの麻雀も変わりのないことでしょう。デジタルにオカルト、何切るに5ヘッドに食い延ばし。これは四面子一雀頭で構成されたたかが鳳凰(*)を御する術にすぎません。私たちは裸単騎七対子という七つ頭の龍を和了するために、旧時代では類を見ないほどに力強い業を手にすることになります。それが『裸効率』という考え方です。
*古来、和了形は鳳凰の姿をなぞらえたものとされる。眉唾ものである。
単純裸効率
最初の牌図に戻りましょう。見れば見るほど創造性に富んだ、クリエイティビティを刺激するクソ配牌ですね。八種九牌でペンチャンターツカンチャンターツがそれぞれ1つきり。何を切っても局収支に大きな影響はないんじゃないか、と錯覚しそうになります。しかし、アタマの世界は優しく厳しいもの。単純裸効率を前提とした時にこの手の候補手は2つ。かのいずれかのみが正着です。
単純裸効率は、単純にアタマを可能な牌種と枚数を数え上げるだけで事足ります。ではここで、正着のととの差を比較してみましょう。
打:12種34枚
打:11種31枚
この時点ではたいした差には感じられないかもしれません。しかし、ここから2アタマをした時にもし今のままとのトイツを残していたとしたらどうでしょうか?ここで仮にこの後にとをアタマしたケースを考えてみます。
ⅰ.トイツをほぐさなかった場合
アタマの受け入れは7種19枚。どちらかといえば道中への渡りを睨んだ打ち方と言えます。ここからさらに単独牌(アタマでは孤立牌という表現を使いません。全ての牌は常に孤立しているものだからです)をアタマすると5種13枚(その内3種は4アタマでの道中聴牌)まで減少します。
ⅱ.トイツをほぐした場合
アタマの受け入れは9種26枚。この時点でアタマの受け入れはトイツを残した場合に比べて35%以上上昇していることが判ると思います。ここから更にアタマを叩いても7種21枚。総計108枚の牌の内の実に二割近くを叩けるのです。
半端な数のトイツから道中を狙うことで裸への道のりがどんどんと狭まっていくことがここから判りますね。二兎を追う者は一兎をも得ず。裸の道はその名の通り、手の内の余計なトイツを脱ぎ捨てていく事からその歩みが始まるのです。
57億の孤独
先ほど、単純裸効率の観点からは打もしくは打が正着と述べました。しかしながら私は、実戦的にもっとも実利のある選択は打だと考えています。「おいおいちょっと待てよデブ、言ってることが支離滅裂じゃねえか」とおっしゃりたいみなさん、お気持ちはわかりますが暫くご静聴下さい。ここで、牌の孤立度という概念について考えてみましょう。
アタマの世界では、面子手を放棄した時点で実質的に孤立牌、関連牌といった諸概念から解き放たれます。とあればこれは1面子ではなく、ととの3種の単独牌に過ぎません。しかし、この3種の牌には孤立度の優劣があります。孤立度とは、卓内に面前手組で進行するプレイヤーが存在すると仮定した場合の『アタマしやすさ』の事です。フラットな状態での孤立度は高い方から萬子の1・9>場風以外の風牌>場風牌&三元牌>>>筒索子の端牌(1・9)>筒索子の2.8牌>それ以外の中張牌>赤牌>>筒索子の尖張牌(3・7)の順になります。孤立度は現在、定量化された指数ではありません。孤立度の分析はこれからのアタマを研究していく上で最も重要なファクターの内の1つでしょう。
ここで先程の何切るに戻りましょう。孤立度の観点から打を推奨する理由は2つあります。
①単純にの孤立度が低い
②が他家にアタマされる事で、の孤立度が上昇する。
そしてみな、裸になったの記事でも書きましたが、アタマの出足はとにかく「2人以上でアタマ和了を目指す」ことがハダカに到達する肝になります。その上で取り残された面前がこぼす牌を刈り取ることが急務となります。尖張牌のの枚数を減らすことでの孤立度(面前側から見た不要度)をアップさせ、全体として裸効率をアップさせることができるのです。
繰り返すようですが実質の受け入れは当然打が優位です(との比較はその孤立度から自明)。しかし、最初の2アタマまでは対子を持っていても大差にはなりません。目に見える枚数よりも目に見えない孤立度。これが令和の時代のアタマデジタルです。
それではみなさん、またお会いしましょう。ゴッツァンデス!